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2S5ギアツィント-S(2S5 Giatsint-S)(ロシア語:ドヴァー・エース・ピャーヂ・ギヤツィーント・エース)は、ソビエト連邦で開発された自走砲である。 (Giatsint) とは、ロシア語で「ヒヤシンス」の意。''ドヴァー・エース・ピャーヂ・ギヤツィーント・エース)は、ソビエト連邦で開発された自走砲である。 (Giatsint) とは、ロシア語で「ヒヤシンス」の意。 == 概要 == 2S5は「オブイェクト123」の名称で開発された共通装軌車両シャーシを使う自走砲として1950年代に2S3等と共に開発が開始されたもので、当初はオープントップ式の戦闘室に122mm榴弾砲を搭載した自走榴弾砲として計画された。 しかし、本車に先がけて完成した2S1と2S3はどちらも部隊配備後に性能面での不足が指摘されたことから、長射程・大口径のカノン砲を装備した長射程自走砲に計画が変更され、2S1と2S3を補完するものとして開発が進められた。 2S3の開発実績から、オブイェクト123車体に150mmクラスの長砲身砲を砲塔式に搭載するには車体が小型過ぎるために困難であるとされたため、搭載砲として開発された52口径152mmカノン砲は車体上に露出式に搭載されることとされ、射撃時の安定性を高めるために駐鋤を装備する、アメリカ合衆国のM107/M110に似た車両となった。しかし、前線部隊の要求には「可能なかぎり自走砲車単体で迅速に砲撃が行えるものであることが望ましい」という点が重要であるとされていたため、砲弾を極力自走砲車に積載し、また一定の発射速度を確保するためと、多数の砲員を必要としなくとも〔小型の車体に大型の砲を搭載した場合、継続射撃に十分な数の砲弾を自走砲車に積載することが難しくなり、また、射撃に多数の砲員が必要であると全員を自走砲車自身に乗車させ切れないため、弾薬車を随伴させて弾薬と砲員を輸送する必要が生じる。そのため、機甲部隊による迅速な進撃を主要なドクトリンとした冷戦期のソビエト連邦軍においては、この点は砲兵部隊の迅速な展開の障害になるとして問題とされていた。〕砲撃が行えるよう、車内弾薬庫と自動装填装置を装備するものとして再度設計が行われた。 このため開発作業は当初の予定よりは大幅に遅れたが、1960年代の後半には完了し、1974年から量産に入った。部隊配備は1970年代後半より順次行われたが、長らく公式には公開されず、西側諸国が存在を確認したのは1981年のことである。その後も本車に関する情報は少なく、当初の識別名称である「M1981 SPG」に代わってソビエトにおける正式な形式番号である2S5及びギァツィント-Sの愛称が判明したのはずっと後のことであった。 尚、愛称の“ギァツィント-S”の「-s」とは Samokhodnuy.“自走式”の頭文字であり、搭載される152mm52口径長砲身カノン砲は並行して牽引型が開発され、こちらはやや口径の長い、2A36 54口径152mmカノン砲 ギアツィント-B(「-B」とは Buksiuruemuy.“牽引式”の頭文字)として完成し、量産・配備されている。 ソビエト軍における配備先は軍直轄の重砲兵旅団に限られており、ソビエト本国以外にはほとんど輸出されず、ソ連崩壊後も諸外国への輸出・放出は行われていないが、旧東ドイツにのみ少数が輸出され、その車輌をフィンランドが輸入して152 TELAK 91の名称で使用している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「2S5ギアツィント 152mm自走カノン砲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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